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第1回

いなくても水が流れることがある

 世界を旅して感ずるところは、各国の言語の独自性と深遠な味わいである。所詮コミュニケーションの道具でしかないと軽く思われがちな言語であるが、実際のところ人間の存在はその言語に由るところが大きい。
 哲学的に論ずれば、人間の思考、感情、欲望等、全ての精神活動は言語によって支配され、言語によって成立しており、各言語は、各々の歴史、文化、生活、信条を反映し、先祖代々、脈々と受け継がれているのであった。正に、世界は言語であるのだ。
 そして、その言語に真っ向から対峙すべく、路傍観察句を探求し続けるのが、「平成俳句界の雄」越冬こあら【宗匠】なのであった。
 と、大上段に振りかぶって、偉そうに述べた直後で、些か恐縮だが、今回の題材(画像)とは、オチョウズにて対面した。

【作品3】……オチョウズ、またの名を東司、雪隠、御不浄。つまり、宗匠がトイレにて小用を足した折、目の前の便器に見出したがこのシールなのだった。早速その真意を五七五に纏めると、

 いなくても水が流れることがある

 となる。撮影時、小用後の身体振動現象の為、写真にブレが生じており、お見苦しい画像となってしまっているが、臭気漂う室内にて、再度撮影音を響かせて撮り直す度胸も、余裕も無かったので、そのまま掲載させて頂く。お許し願いたい。
 さて、「水の流れ」については、古来より「水の流れと人の末」と諺されたり、宝井其角さんが「年の瀬や水の流れと人の身は」と忠臣蔵したりで、とかく人生に喩えられがちだ。そんな中、このシールの斬新さはもちろん「人がいなくても」という『人間不在』の前提にある。
 この前提を「あの人がいなくなっても私には私の人生がある」と個人的、空間的に捉えるか「人類誕生以前にも、そして人類滅亡以降もきっと、水は流れていることだろう」と人類的、歴史的に捉えるかは、個々人の置かれた環境に委ねられるが、『不在の存在』という哲学的大命題をさらりと具現化した筆致は、特筆されるべきでり、何れ名のある方の技と拝察するところである。
 しかし、それ程の名言であると拝察した直後だが、一句鑑賞の観点から見ると、例によって、季語が欠落している。「水遊び」「水澄む」「水温む」と水を冠した季語は多くあるが、「水」単体では季語とはならない。それならば、水を冠した季語をひとつ拝借したいところであるが、それではテーマと季語が付き過ぎてしまい、一句としての深みが出ず、面白味に欠けることになる。
 ここはひとつ「無人水流」の無機感と「晩夏」の悲哀を羅列することによる相乗効果に期待して「秋隣」という手堅い季語を配し、一句の運命を硬派季語の秘められたパワーに託してみたい。

【宗匠添削】無人便器に水流や秋隣(むじんべん/きにすいりゅうや/あきどなり)

【宗匠鑑賞】上五と中七が句またがり(上七音、中五音)になったところを「水流や」と切れ字(や)で引き締めてみた。季語も堂々と安定し、完成している。これは良い句だ。




文と写真:越冬こあら/08年7月1日■
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