左さんのカレーなるいつもの日 archive1 next>>




連載エッセイ●17
必殺戸締りの訳
 こういう話を公にするのは防犯上よろしくないとは思うが、実家では玄関に鍵をかける習慣がなく、いつもあけっぱなしだった。共働き家庭の子供が首から鍵をぶら下げていることから「かぎっこ」という語が出来はじめた時代だったが、家に誰も居ないことの多い家庭だったにも関わらず、自分をかぎっ子と思ったことはなかった、鍵そのものがなかったのだ。
 結婚して住んだアパートで、ドアに鍵を掛けると逃げ場を失ったようで、かえって緊張したのを覚えている。現在は、自慢できたことではないが、空き巣、ひったくり、露出魔等の情報が頻繁に公開され、平和そうにみえても実はかなり物騒な地域に住んでいる。少しの外出にも施錠は必須、開けっ放しはもってのほかである。
 全くなかった施錠の習慣はやっと身についてきたが、身支度を済ませ、さあでかけようとするときに、鍵がない。あわててそこら中ひっくり返すが見つからない。困りに困って大きな犬を玄関につなぎ、泥棒が来たときの心得を良く言い聞かせ外出した事も少なからず、ある。先の帰宅時から今の外出時までの未使用時に紛失してしまうのだ。一体どこへなくすのか、そんな問題を抱えつつスティーヴン・キング原作のシークレットウインドウを見ていてびびっと閃いた。キーボックスがないのが原因だ。そうに違いないと早速設置してすべての問題は解決した。たまにキーボックスにもキーがなく、慌てる日もあり「意味ないじゃん」との批判も耳に入っては来るが、あまり気にしない。何事も器が大事と思っている。


 レトルトカレーを極める会も、友人と集まって食べるだけだったら今日まで続いてなかったかもしれない。ホームページという大きな器に食べたカレーを並べ続けて、気がつけば700食を越していた。100食を過ぎた頃に思い切ってサイトを立ち上げたが、メールと掲示板への書き込みくらいしかした事のないパソコン音痴のど素人。今でも本当の仕組みはさっぱり分かってないのだが、めくら蛇に怖じず、やりたいことの前に道は開けると信じている。基本の勉強もしないまま、よくまあここまで来たものだ。思い描く像を持つ者は強いのだ。
 それにしても、この国のレトルトカレーという食文化、なんだか知らないが凄すぎる。食べても食べてもなくならない。新商品は出し続けられ、底なし沼、頂上のない山、うんざりだけど止められない出口のない森を旅している。巨大な風車に挑むドン・キホーテが、たまに自分とだぶる私である。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。

写真:この犬が玄関に居たら「留守です」と言うことらしい。実にデンジャラスである。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)

左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達。遊びに来てね。


連載エッセイ●16
ジベタリアンの秘密
 登下校途中の子供が事件や事故に巻き込まれる耳を疑うような事が頻繁に起こるこのごろである。子供が安心して歩けない国になってきていることは重々承知の私であるが、「行ってきます」と出かけ、「だだいま」と帰ってくる、この繰り返しが子供を成長させると思っている。一歩家を出たらそこは社会なのだ。学校までの道を一人で歩き、先生という大人や友達などたくさんの人から学び、町内という社会を歩いて家まで帰る。その繰り返しのうちに社会へ出て行く訓練が積まれ、自立への準備もされていく。1年生に上がりたての3日間位は、通学路の途中まで迎えに出るのもほほえましいこととしても、高学年になるまで毎日迎えに行くのはどうかと思う。

 重い荷物を持ち、懸命に家まで帰って、「ただいま」とほっと荷を降ろすのが、「おかえり」と迎えてくれる「家」である。緊張と安堵の繰り返しから、うちと外のちがいを学ぶ。それは口で教えられるものではなく、社会に出てからでは誰も注意してくれない。出来ていなければ陰でこっそり笑われるのだ。食事作法と同じである。通学途中が心配だからと、校門前まで迎えにいく人のそれは、保護者としての愛かもしれないが、友達としゃべりながら帰る道から子供が経験するかけがえのないものを奪う偏愛であると私は思う。ママが校門前にいることによって、子供は本来自宅玄関で言うべき「ただいま」を、校門前で言うことになる。どこでも玄関、または道の居間化である。
 コンビニ前の地べたにべったり座るジベタリアンや、電車内で髪をとかし化粧する美人。道の居間化の産物だと私は思う。近頃は道でする犬の大小便にも町中で目くじらをたてられ、やたら神経を使わされる。家の玄関が前にせり出し、道が居間化しているのだ。誰だって余所の犬が居間に粗相したら怒る。当たり前である。

 話が下まで落ちたところでカレーの話もどうかと思うが、はばかりながらこれはカレーエッセイである。ジベタリアン御用達かどうか知らないが、カップカレーとうい商品がある。お湯に入れて温めるレトルトカレーよりぐっとスナック菓子に近く、パンと食べるとなかなかおいしい。フリーズドライの具にお湯をかけ、ぐるぐるかきまわす。カップラーメンで慣れているはずなのに、それでカレーが出来ると、おおっ! と、感動なのである。いくつになっても感動はうれしくありがたい。冒険心もむくっと湧いたが、コンビニ前の地べたで食べる程の勇気はいつまでたっても私には持てないかもしれない。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。

写真:野外で食べる弁当は格別である、敷物を敷き、場を作るのである、レディはベンチに座るにもハンカチを広げるものだ、知っていて欲しい。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)

左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達。遊びに来てね。



連載エッセイ●15
固い話
 ヨガ教室に通ってはいるが、目指している柔軟な身体、引き締まった腹や腕とはいまだ程遠い私である。結跏趺坐で瞑想する基本ポーズもまだ出来ない。有名人ではお釈迦様そこらの人でも出来る人は出来る、あぐらのように左の足甲を右腿に右の足甲を左腿に組んだ形である。
 片足をもう片方に乗せるまでは容易だが、下の足がどうにも上がらない。無理をすれば相当に痛い。足の長さや太さを考慮すれば私の場合物理的に無理なのではないかといつも思う。それが顔に出るのだろう、先生の「短足だから、足が太いから出来ないという人がいますが、そういう問題は全くこのポーズには関係ありません。股関節が柔らかければ短くても組めるのです」と私に目線をあわせて言われるからには、「おまえのことだ」とおっしゃってられるにちがいない。
 静かに足を組み、香をたき、ゆったりとした呼吸で自己を内観し、日本のこと、地球のこと、宇宙のことについて考えたい。そのためにはまず股関節を柔らかくする必要がある……らしい。今の私の様に固い身体で瞑想すると、夕食の献立、買い物リスト、クリーニングの受け取り、税金の支払い期限、家の戸締りやたまっているアイロンかけなど、身辺雑事からせいぜい隣の駅くらいまでしか思考は飛ばない。すべて股関節が固いからに相違あるまい。

 いつも食べているレトルトカレーは、この狭い島国日本から、実に自在に世界へと飛んでいる。欧風、タイ風、英国風、ジャワ風、バリ風、メキシコ風、セイロン風、マレーシア風、タヒチ風と数え上げたらきりがない。それぞれ薀蓄ははてしなく膨大にあるのだろうが、日本で生まれ育った私である。タヒチ風といわれても、何がなんだかわからないのが本音である。カレーといえばインドなのだと思いがちだが、どっこいそう単純なものではないらしい(詳しくはカレー研究の本を読んでください)。インドに行ったこともない私でも、肉類たっぷりのカレーがインドの家庭料理のはずがないと想像できるし、南米でカレーライスとは不思議と思う。○○風という日本語表現力の豊かさと、スパイスと具の組み合わせで無限のバリエーションが可能なカレーが出会い、この数え切れないほどのレトルトカレーを次々と生み出している。何処風だろうと日本人が日本人の好みに合わせて作るのだ。全部「和風」じゃないのか? と無粋なことを思いもするが、そんな固いこと言ってはつまらない。なにしろ、ヨガの本場インド出身のカレーである。柔軟性も無限なのだ。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。

写真:ご主人から送られたTシャツを心からうれしそうに着る友。固い愛に結ばれた美しい夫婦の像である。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)

左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達。遊びに来てね。



連載エッセイ●14
平和について
 「土・日・休日は、そこに座って石の様に動かないねえ」と、この頃言われる。確かにそのとおりなので返す言葉もない。ゴールデンウィークや正月などの長い休みとなると、休日あけの暮らしが思い描けないほど身体がなまる。平日は朝早くから夜遅くまで会社にいて家にいない夫は、休日だからと朝寝するとか、昼寝するとか、早寝するとか、世間でよく言われる「だらだらしたおとうさん」の様子は一切見せない。家族の誰よりも早く起き、犬の散歩〜朝のコーヒーをいれて〜朝食にホットケーキを焼き〜食べ終わる頃には洗濯機から洗いあがりの音がする〜食器はさっと片付け〜洗濯物を干し〜天気がよければ布団も干す〜2人の子供のピアノの練習をみてあげて、ここらで午前8時半くらいである。

 休日だもの弁当もつくらなくていいし、犬の散歩もゆっくりで、と思っている私の出る幕はないのである。ここで、同じ女性として、妻として、よその奥さんを愚か者呼ばわりすることは控えるが、賢い私としては「休日くらい洗濯しなくても、服が足りないわけじゃなし」「食器なんて夕方までためてまとめて洗えば? 茶碗が足りないわけじゃなし」「お父さんの作ったチャーハンなんてまずい」「私がしますから手を出さないで下さい」などとは絶対に言わない。

 休日だもの、動きたいように好き勝手にやりたい放題してもらうだけである。夫の意に染まない物も事も我が家にはひとつもないのである。朝7時に出かける予定があるとすると6時台から洗濯をはじめ、大雨でも干す。出かける間際まで本を読んでいたりする私が、本を閉じてさあ出かけようとするとき「ちょっとまって、これだけは干して行きたいなあ」というのが夫である。「こんな雨の日に慌てて干さなくたって」という私に「こんな天気だから早く干さなきゃ」というのである。しかし、私たちはそんなことで言い争った事など一度もない。「なるほど、そう考えるのか」と自分ひとりでは思いも寄らなかった考え方に驚き合う。元々自分とは違う世界を持った人と一緒になって自分の世界を広げたい、と、思って選んだ相手である。違えば違うほど不思議な味が出るのである。
 違う文化のもの同士「和」する心で接すれば武力の出る幕ないではないか? ねばねばの納豆をカレーに入れて「これが噂の納豆カレー」。不思議極まる異文化の交流を賞味しながら、平和とはこんな感じ? 喧嘩する気も失せるって偉大と、熱く思う私である。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。

写真:華奢な美猫の面影はもうないが平和なのだ、違いない。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)

左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達。遊びに来てね。



連載エッセイ●13
「だった」者達
 私は気楽な専業主婦なので、毎日何時までにどこかへ行かなければならない用など無い。だいたい午前中、夕方には、2〜3日うち、春頃までに、とても緩い時間で動いている。犬が催促すれば散歩の時間、猫が擦り寄ってくれば雨戸を閉めて夜なのである。
 たまに待ち合わせしても、移動時間の配分が出来にくい体質になってしまっているらしく、待ち合わせ時間まであと5分なのに着替え中だったり、通夜の会場に3時間も前、ご遺体より先に駆けつけたこともある。  昔からそういう性格だったのではない。子供の頃は成長も危ぶまれるほど、神経質で心配性の子供であり、外出しても同行者全員の荷物や切符や財布の中身まで心配で、どこへ遊びに行っても容易に楽しめなかった。翌日の朝から夜寝るまでを頭の中で思い描き、不安なことを見つけ出しては心配で寝付かれない。屈託の無い子供たちがたくさんいる幼稚園なんて大嫌いだったし、その場しのぎのお世辞やごまかしを言う大人も軽蔑しており、思えば育てにくい子供だったに違いない。
 目覚まし時計をセットして寝ても、鳴るまで寝ていた事は一度も無い。鳴る前に自力で起きれるのなら目覚まし時計はいらないだろうに、枕元の時計がなければ心配で眠れない。
 そんな私が結婚し、子供を産んで、あの繊細だった神経も、寄る年波に脂肪のついた体形同様、図太くなったということらしい。私の日常の行いに対して批判めいたことを言うことの無い夫も、激変した体形に関してはたまに「騙された」的なことをちらりともらすが、「何不自由なく暮らさせていただいて、おかげさまで幸せ太り」と謝礼の言葉を返すことにしている。容姿の変化はお互い様であるのはいうまでもない。

 このように、元はさぞかし○○だったろうに、なんとこんなに変わり果て、気の毒にすらなってしまうような事。カレーにも、そんなカレーがいくつかある。「ら・ふらんすカレー」「マンゴーカレー」「びわカレー」いずれも、どう考えても生で食べたほうが美味しそうな果物である。
 カレーには並外れた包容力がある事を重々わかってはいても、わざわざ入れるかラ・フランス? と思うのだが、それぞれそつなくフルーツ味のカレーに仕上がっているには驚く。ラ・フランスとおぼしき果肉片、マンゴーの面影を残す物体、びわはどこに行ったのか確認できず残念だが、フレッシュ「だった」にこだわりすぎては未来がない。カレーの要は包容力だ。またひとつカレーの秘密を掴んだ私である。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。

写真:「だった」と書き加えてこそ校庭に置く意味がある。と、思われる「だった」切り株。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)

左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達。遊びに来てね。



連載エッセイ●12
曲げて伸ばして逆廻り
 歯医者で歯型取りマウスピースを噛み、診察台で仰向けの姿勢から、ふと上半身を持ち上げ気味に動かした。ほんの少し首を持ち上げただけの動きだったが、一瞬にガツンと胃袋の辺りがつってしまい、口いっぱいにマウスピースを噛んだまま一人静かに悶絶的痛みを味わい、文字通り死ぬかと思った。犬の散歩で朝夕歩いてはいても、運動らしい運動もせず怠惰に過ごしていたわが身に警鐘が鳴ったというわけだ。
 歯医者で腹がつって死ぬなんてイヤだと思った。その程度の動きで腹のつらない身体にならなければいけない。お金を払ってでも運動しなくてはいけないのだ、と近所のカルチャーセンターの講座を調べると、ちょうど開講間近の健康ヨガ講座があり、渡りに船と即決した。どうしてヨガだったのか、今となっては理由も思い出せないが、なまりきった身体には良い選択だった。
 いつもながら即決を外したことの無い私である。とはいうものの、習い始めはつらかった。曲げるも伸ばすも思うようにはならない上に、正座するだけで足裏がつる程なまりきった身体、翌日は筋肉痛で歩けない有様。しかし前納した月謝3ヶ月。休んだら損だから、毎週通ううちに硬い身体なりに週一のヨガが楽しくなってきて、今日まで続けている。毎度先生の号令に従って、皆さんと同じに曲げたり伸ばしたりしているつもりが、はたと気づくと、私一人ほかの皆さんと全く逆向きに寝ていたり起き上がったりすることがある。どこかで逆まわりしているらしいのだが、どこで違えているのか見当もつかない。先生もよく吹き出しもせずたんたんと号令しておられるものだと毎度感心。「槙子さん、号令どおり、逆廻り」なのだ。
 こんな風に、私だけみんなと違う事で人知れずわくわくしたりということが、お菓子を食べても実はある。海軍カレーの街として名を馳せている横須賀のお土産で、「どらカレー」なるお菓子をいただいた時、てっきりどら焼きの餡子の部分がカレーだと思い込み、かなり複雑な、ほとんど怒っているような気持ちでかぶりついたら、何のことは無い。餡は普通に餡子で、じゃあどこがカレー?かといえば、餡を挟んでいるカステラがカレー味。「なんだい、こんなに当たり前じゃつまらない」と憤っても、餡がカレーとははじめから誰も言ってなかった。意外な物や変な物が大好きだとは自他共に認める私でも、どら焼きをカレーに入れて「どらカレー」なんて、想像するだにまずいので、作ったり売ったりしないで下さいね。出たら一度は買いますけど。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。

写真:いかつい顔しても身体はなまってるに違いないライオンにヨガ講座をお奨めしたい。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)

左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達。遊びに来てね。



連載エッセイ●11
豆腐の角に愛である
 家族とレストランで食事していたときのこと、若いウエイトレスに「(子供用の)匙をください」とお願いしたら「?」と彼女は止まってしまい、こちらも「?」であったが、「??」のままに「スプーンを」と言い直したら、「あ、はいっ!」とにこやかに動き始めた。「匙」という単語が理解不能だったようだ。「匙をなげる」「匙加減」「匙」、そんなに難しい単語だったろうか? 接客マニュアルのどこにも「匙」という字がなかったのだろうが、ちょっとショックな出来事だった。
 私の高校の国語教師は、不出来な生徒に、「3階の窓から飛び降りなさい」とよくおっしゃった。生意気盛りの生徒達は、「教室から出て行け」と言われたら行っちゃうかもしれないが、「3階の窓から」と指定されては、にやりと笑って座っているしかなかったものだ。マニュアル人間や指示待ち症候群ばかりの今の教室では、本当に飛んじゃう人もいそうで、「お利口だから座ってなさい」と言うしかないだろう。双方共にお気の毒である。この頃は親が子供を叱るにも、「出ていきなさい」だなど言おうものなら、本当に取り返しのつかない事態にまで進展し、「感情的に怒ったらいけない」などと唱える人もいる。でも実際の話、頭で教わったとおりやってられないのが子育てだ。親は子供に怒りたいとき遠慮しないで怒っていい、と私は思う。ただし、「指示通りなんでも行なって命の危険も顧みない」タイプの輩には、単に「出て行け」や「死んでしまえ」では言葉が足りない。そこで、「豆腐の角に頭をぶつけて死ね」と、死に方まで指示してやればいい。親がわが子に「死んでしまえ」と怒鳴るとき、本当に死んで欲しいと思ってるなんて100パーセントあるわけ無い。「それ程憤っているが、実際はお前の事は大好きなのだ」が伝わる怒鳴り方の筆頭に、「豆腐の角……」を私はあげたい。ほかに「へそ噛んで死ね」もセンスが良いと私は思う。真意は測りにくくとも、愛は伝わると思えるのだ。
 真意が測りにくいといえば、「ライスが決めて」と大書してあるレトルトカレーを購入したら、そのすぐ次の行に「又はナンで召し上がれ」とも書いてある。調理法として「具が入ってなくても冷たいままでも食べられます」???である。そりゃあ冷たいままでも食べられるには違いないが、普通美味しくないでしょう? 決め手のライスは私が炊くのだし、具も入れないなら入ってないのだ。420円タージ・カリーというこのカレーに、はたして愛はあるのだろうか?

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。

写真:不器用ながらそれを推して余りある愛の伝わるオムライス。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)

左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達。遊びに来てね。



連載エッセイ●10
露出連呼の町
 ある休日の午前中電話が鳴った、小学校からの緊急連絡網であった。休日の連絡網とは異例の事態、受話器をとる手にも緊張が走る。
(連絡網のシステムが万一わからない方のために説明すると、学校からの連絡事項に尾ひれをつけず正確に素早く次の家庭へ伝言しクラス全員に確実に伝える。メモを取り復唱しながら電話を受けることが望ましく、仮に子供5人が在学中の家庭には各クラスから同じ伝言が5度回ってくることになる。)
 この朝の連絡事項は「学校近くの路上で30代の男が露出するという事件がありました。子供たちに注意を……」というもの。さすが学校作成の伝言であると感心する。伝言中最も肝心とおもわれる「何を」が絶妙な呼吸で伏せてある「何を、どう、で? どうだったんです?」と聞きたい、話したい、付け加えたい気持ちを抑え、伝えられた伝言のみを次の家庭へ送る。留守ならば留守番電話に吹き込み、とにかく全家庭に伝える。それが連絡網の使命である。
 露出男の話題で町内もちきりな状況に図らずもなる。私は露出癖も露出願望もあいにく持ち合わせないので想像するしかないのだが、露出男にとってこの状況はまさに至福の事態なのではあるまいか? 我が露出が町中に言い広められている。露出癖保持者冥利に尽きるとはこのことなのではあるまいか?
 このように善意が元になっているのに結果はなんとなくよこしま寄りに終わってしまう。という様な事、世の中には意外と多いのかもしれない……「薬だよ」って幼児に玉子酒……とか、『足元注意』の看板に目を取られ誰もが蹴つまずく段差……とか、小銭を出そうと財布を払った挙句に1万円を出す……とか。悪心からではないのに悪事の一翼を担ってしまったようで、つきつめると心の居心地がなんとなく良くないのである。レトルトカレーにもあまりにスパイスをはずみすぎて、辛いを通り越し、味覚も飛び越し、直球で痛いものがある。辛さは慣れであるし個人差もあり、その痛いカレーが「おいしい! 」「大好きだ!」という方々もたくさんおられるので一概には言えないのだが、口に含んだとたんから「痛い」。飲み込んだ胃袋からヒィ〜とかヒョ〜とか声にならない声が返ってくるその息で口内が更に痛い程のカレー。辛さの表示は「40倍」や「アブノーマルホット」と、名前からして危険! 注意! と促してあるのは良心的である 。がまさに、悪気じゃないとはわかっちゃいるが、毒なんじゃないか? の疑惑も拭い去れない私である。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。

写真:悪気で無いとはわかっていてもこの赤さ、一抹不安な氷イチゴ。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)

左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達。遊びに来てね。



連載エッセイ●9
およびでないじゃない?
 子供が小学生だった頃の話である。家庭科の時間に「サンドイッチを作って親と食べるので学校に来てね」と言われて、なるほど日頃の感謝をそう表すのか、感心、感心と、いつもの参観日より少しきれいな服を着て出かけたら驚いた。クラス中の親がエプロンに三角巾姿でいそいそと働いている。「今頃来てなに? さっさと手伝いな」と私に向かって暴言を吐く者までおり(いい度胸である。どうやらテンパッてるらしいので、この場での成敗は控え)、常日頃温和な性格で通っている私から「子供達が作って親を招待してくれた会でしょう? あんた達こそなんですかっ!?」と、少し大きな声が出たが、多勢に無勢。こんなとき一人の声なんてかなり虚しい。
 私が切れたと見て少しあわてた先生は、その後何度か「お母さん方は今日はお客様です。6年生は主体的に動いてください」と声を張り上げておられたが、その虚しさは私と同様であった。お気の毒な話である。私自身3人の子供を抱えた今どきの親であるが、今どきの親の過保護・過干渉は異常の域を超え傑作ですらある。社会見学にお忍びでついて行ったり、運動会のジャッジに血相変えて本部に怒鳴り込むなどざらな話である。
 ニュースでは教師の犯罪が取りざたされ、教育現場大丈夫か? と心配されているが、幾百万の変な親がいて、たまに教師が立場上捕まっちゃってるだけなんじゃない? と思えるほど、今の親達は変である。6年生と言えば12歳。2〜3種のサンドイッチくらい子供たちで作れて当たり前ではないか? 親は紅茶の用意くらい手伝えば十分でないかと思う私は、変だろうか?
 この日の会食には、お母様方のご用意下すった唐揚やらフルーツポンチその他手作りのケーキやフライドポテトに400円もふんだくられて、憤懣やるかたなし。聞けば、それぞれ手分けして朝からママたち大忙しだったそうである。学校がおかしいのではなく、親がおかしいと確信した。料理実習めちゃくちゃだとは、夢にも思っていないのだろう。先生方が大切に育んでようやく出た芽を、それっとばかりに摘み取って、ラップをかけて冷凍保存。そんな光景なのだ。
 包丁も火も使わせなければ、使えなくて当たり前。小学生ともなれば、親の留守にカレーライスくらい自分達で作って当たり前だと思う私は、少数派。留守中、火を使うなんて、とんでもないのだそうだ。で、500円を渡し「コンビ二でなんか買って食べなさい」と言うそうだ。そんなの「虐待じゃないか」と思う私は「変」なのだそうである。こんな時代に子育て「つらい」と、たまに弱音も吐きたくなる。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:重圧に負けず必死で伸びる草。ママに悪気は無いのだよ、許してくれよ子供達。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)
左槙子のカレーてんこ盛りページ:レトルトカレーを極める会食品庫エッセイに登場した名誉あるカレー様達
遊びに来てね。



連載エッセイ●8
長生きの秘訣
 神童だ天才だと親から言われて育った私は、「天才の私は夭折なのだから20歳まではとても生きられまい」と、大慌てで青少年時代をすごしてしまったらしいとこの頃になって気がついた。思い込んでいたのは「天才は夭折」というあれだ。ところが肺病やお上の思想的弾圧などによる若年の死亡が医学の進歩や時代の発展で少なくなった時代に、作品だけ残して早々とこの世を去らねばならない事は中々むつかしく、いつしか白髪頭になって今に至っている。「天才も20歳過ぎればただの人」というそれだ。
 生家の家族を見渡せば、大正生まれの両親共に元気だし、母の母も100歳を数えなお矍鑠と健在で、亡くなった祖父達も長命であったことをみれば、なんてことない長寿の家系であるらしい。身近な年寄りに親しく接しては、長寿には長寿の共通点があることにきがついた。
「よく笑う」「生涯を貫く趣味を持ち自分の世界を持っている」「何があろうと、そのうちなんとかなるだろうと思っている」。この3点セットを持っている人は何気なく見えて実に強い。逆にどれか一つ欠けてもならない程の重要素ともいえるのではないか。朗らかに良く笑う人は存在そのものがありがたいし、自分の世界を持つ者の強さは言うまでもないだろう。
 そのうちなんとかなるだろうは困難に対面した時の脱力の姿勢で、病魔も艱難も辛苦も、脱力の前に霧散していく奇跡を目の当たりにしながら育った私である。体の健康も重要ではあろうが、健康でも朗らかでなければ生きていたってつまらないし、「そのうちなんとかなる」と思えなければ、病気宣告を受けたらまともに病気になってしまうだろう。病魔に対しても脱力は相当に有効であると私は思っている。「あんたは長生きする」とはこの頃頻繁に友人達から言われるが、確かにこの3点セットを私は若くして収得しているかもしれない両親のおかげであると感謝している。
 カレーの基本はいわずと知れたスパイスであり、スパイスはもともと薬であって、肉やらを使わずに本当にインド人のお惣菜であれば健康食、長寿の元に違い無かろうが、霜降り牛肉や豚バラ肉なんて物が大好きな私達日本人である。たまにインドから輸入された本格ベジタリアンの豆カレーやほうれん草のレトルトカレ ーを食べると、「こんなのカレーじゃない」「なんか味が足りない」等の感想がもれてしまう。本場のカレーは日本のカレーより脱力に秀でているのだ。遥かかなたの日本から「カレーって深い」とつくづく思う。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:大樹に出会ったら、静かに寄り添い、生命について語りあうべし。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)



連載エッセイ●7
視点変えの奨め
 桜が散って新緑の頃になると春先からくしゃみ鼻水鼻づまり目耳のどのかゆみ、と苦しんできた花粉症も一段落かとほっとする。流行り物にはおいそれと手を出さないよう心がけて生きている私だが、花粉の季節には一通りの症状があり、そんなことだけ人並みでうれしいのだか悲しいのだかわからない。それにしても、つい数年前まではこれほど誰も彼もがマスクやゴーグル着用で歩いてなかった気がするのだが気のせいだろうか。
 交差点で信号待ちをしていたら向かい側にずらりと並んだマスクの人々。信号がかわるといっせいにマスク軍団が歩き出す。その軍団にむかって私も歩き出しながら着用していたマスクをはずし、その日からきっぱりマスクはやめた。
 こんなにマスクが流行っていたら、マスクしないで歩いていると「露出魔」として通報されたり「はしたない娘」とうわさをたてられ、縁談に差し支えが出たりしはじめるのでは? と怖くなったのだ。フラフープやダッコちゃん(例が古いとお感じの方、各自適当な流行り物に差し替えてお読み下さい)が流行ったりと同様に、今は花粉症グッズが流行っているだけじゃないか? と、思う。そうと気づいたら急に一通りの症状が軽くなった気もするので、花粉症でお悩みの方には一度「そんな流行にのるものか」と視点を変えてみること、おすすめである。
 とか言うと一斉に「本当の花粉症のつらさをしらないくせに」と怒られそうだ。だいたいどんな病気でも、症状が重いほうがえらいと言わんばかりに病気自慢を始める人が多い。健康な人はうつむいて端っこにいるしかないことすらある。めざしの頭も信心から。視点を変えるだけだもの、目くじら立てずにお試しください。なんてったって無料です。
 視点を変える。で、思い出すのがホワイトカレーと言うカレー。カレーから黄色い色のスパイスを抜いてみたらこんなになりました、という感じ。たしかに一味足りなくてこんなのカレーといえるのか? と思うのだが。
 カレーから抜いた黄色いスパイスを白いご飯を炊くときに炊飯器に入れ、ちょっとバターも入れ、黄色いターメリックライスを炊き上げて、白いカレーをかけて食べると、あら不思議。意外といける。白いご飯に黄色いカレーをかけるのか、黄色いご飯に白いカレーをかけるのか。視点を変えただけの物だ。
 ホワイトカレーを食べてみて「なんだこんなまずいもん」と思った事のある方は是非一度お試しください。具はエビやベーコン、赤いものが合うと私はおもいます。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:いっせいに赤い新芽を吹き出して「視点が違う」を実証する生垣。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)



連載エッセイ●6
黒いランドセル
 一年生のお祝いにランドセルを買ってもらった、遠い昔の話である。デパートの売り場で「赤は嫌だ」と頑張った。男の子は黒、女の子は赤のランドセルがお決まりだった時代であり、母も店員も困った顔で説得したが私は頑固に意志を通し、学校中の女子でただ一人黒いランドセルで入学した。
 幼稚園から仲良しだったQちゃんは、私の黒いランドセルを見たとたんうらやましくなり、入学式から帰るなり赤いランドセルを投げ捨てて「黒がほしい」と猛烈な駄々をこねた。「黒は駄目です」というママと大バトルの末、翌日、目にもまばゆい黄色いランドセルで登校した。さぞかし高価であっただろうが、黒が欲しくて行ったのに、言いくるめられ黄色を買って帰ったのだ。子供の目にもあきらかな敗北である。
 Qちゃんはその黄色をまたも投げ捨てて更に激しく戦って、結局紺色の洒落たランドセルを買ってもらって落ちついた。私が「赤は嫌だ」と頑張って、我が母上もその意志を尊重してくださった。我が家にとってはあたりまえの買い物であったのが、私とたまたま同級で、席も近かったばかりにQちゃん家は入学式から1週間で3つのランドセルを購入する羽目となったのだ。私の家とは桁違いに裕福な家のQちゃんだったが、ママの買う高価な品とはいつも「違う物」を欲しがって、与えられても、与えられても、満たされない状態をその後も繰り返し続けていた。この出来事から「欲しいものを1つだけ」と学んだ私は、その後の人生で岐路に立つ度その教えに従い現在に至っている。今のように色とりどりのランドセルが売られているご時勢には、赤か黒かのこだわりなど理解しがたい事かもしれない。
 色とりどりのランドセル同様、昔は黄色と決まっていたカレーも、この頃は色とりどりである。赤カレーにはトマトたっぷり、黒カレーはイカスミ入りなど味も意表をついてくる。ホワイトカレーは文字通り白く、ほうれん草カレーは緑のどろどろで、頑張らないと食欲がうせる。選択肢が増えて自由に選べる幅が広がり、本当に好きなものを1つに絞るのは、物の無かった昔より難しくなってきている。レトルトカレーも1箱に2種類のカレー入り、牛丼とカレー、ハヤシとカレー、の相掛け等、一つに決められない人対応の商品を見かける。2種類のカレーを食べたい人の気持ちはわかる気もするが、牛丼かカレーのどちらが食べたいのかすらわからない人もいるかと思うと、ちょっと暗い気持ちになる。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:珍しいからラッキーなのに、こんなに見つけては逆に不安な四葉のクローバー。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)



連載エッセイ●5
口内炎の秘密
 口内炎ができて痛い。くちびる、歯茎の近く、頬の内側、舌の裏、どこにできても痛いに変わりは無いのだが今回最悪に痛い位置、舌の付け根に見せてあげたいほど大きな1つが、これはもう、水を飲んでも、食べても、しゃべっても、何もしなくても、痛くて往生している。
 こういう目に遭うと、さすがの私も「何か悪いことしましたかしら?」自分の行動を振り返ってみたりしてしまう。そんなことしても痛みに変わりがあるじゃなし意味無いことかもしれないが、原因がわかれば予防法大発見への道が開けるかもしれないと、心静かにここ数日を振り返ったら、思わずをぉうっと声が出た。
 私ってけっこう変な事をして人に迷惑かけてるのかもと、思える事がいくつかあった。なかでも子供の卒業式を前に、子供達が今日まで学んだ事の発表や学校生活の思い出を劇で演じたり、合唱・合奏を披露してくれる発表会に招待され客席で鑑賞した日、すべての演技を立派に終えて晴れ晴れと誇らしげな表情の子供達に精一杯の拍手を送ったその直後、壇上に子供達を整列させたまま「それでは次に校長先生のお話です」というアナウンスにおもわず「いらねえよっ!」とつぶやいてしまった。ほんの小さな独り言だったのだが「槙子さんの『いらねえよっ!』が、しっかりビデオに収録されてます」と数人の保護者からお電話いただいた。場内がしんとした一瞬にズバッと響いてしまったらしい。思い返せばあの瞬間に数人の先生がギロリとこちらを振り返った「どうかしたのかな?」と思っていたが、聞こえました、という意味だった? うわ〜ぁやっちゃったよ、と汗が吹き出た。
 口内炎はストレスが原因で出来るとは良く聞く説だ。今回私を苦しめている口内炎はこの出来事が原因だという気がする。「卒業式には黙ってなさい」という神様からの戒めか、校長先生からご立腹の念を送られてまんまと受けてしまったのか、いずれにしても子供のハレの卒業式には身を謹んで行かなければと深く反省させられた。口内炎のおかげである。
 こんなに口の痛い日は刺激的なカレーなどは避けるべきとお考えの方も多いと思うが、辛い味より痛く響くのは口内炎の場合咀嚼数である。「カレーは飲み物だ」などと乱暴な言い方をする人もいるように(そんな食べ方身体に良くないに決まっているので推奨はしませんが)痛い口には(かまずに飲めると言う点で)案外いけるメニューかもねと、私は思う。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:口内炎にはビタミンを摂るが良いといわれるが柑橘類は最もしみる。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)



連載エッセイ●4
擬態と変態
 生まれつきたいへん地味な性格なので、人前で話をする事や会合での自己紹介などがとても苦手だ。ごちゃごちゃ言わずとも、服装や髪型や立ち居振る舞いを見れば大体のことはわかるだろうと思うのだが、学校や幼稚園の新学期の保護者会では保護者に「自己紹介をお願いします」とおっしゃる先生は意外と多い。
 自己紹介というからには自分自身を紹介することと昔から決まっているはずだが、どういう訳か保護者会では「○○子の母です」と話し出す人がほとんどで無性にいらいらさせられる。そして「○○子は▽な子で△◎なのでどうぞよろしくお願いします」だなどと結ぶ。ちっとも自己紹介がわかってない。「全員やりなおせっ!」と言いたくなるが、気が弱いので静かに拝聴し、自分の番になったなら「左槙子です。どうぞよろしく」と言って着席すると、「えっ? それだけですか?」と、さも意外そうな反応をされて更にいらつくが、持ち前の我慢強さで辛抱する。
 だいたいそういう会に出向くときには、なるべく自己紹介など無用にするべく、自己主張の強い服を着ていくように心がけている。近頃は面白いメッセージが大きな文字で書かれているTシャツなどが売られており、そういうシャツを利用するのも効果的だ。私が良く保護者会に来ていくシャツは黒地に派手なピンクの文字で大きく「へんじんだもの」と書いある。自己紹介もはぶけるし、親同士のつまらない食事会にも誘われにくくなるので重宝している。その他「かんぜんへんたい ふかんぜんへんたい」と書いてあるものもPTAの役員を断りやすくなるなどの利益があり便利なシャツだ。ここに書いてある「へんたい」は「幼虫が蛹になって成虫になる=完全変態(蝶など)・幼虫が蛹にならずに成虫になる=不完全変態(セミなど)」のことであるが、どうとられようと先様の知性の問題なので頓着しないことにしている。
 青虫が蛹の中で1度どろどろの汁になり蝶になって出てくる完全変態は、まさに神秘な営みで、凄いなあといつも思う。凄いなあと思うものといえばもう一つ、最近食べたレトルトカレーに柿カレーというのがあった。いままでずいぶんたくさんのおかしなカレーを食べてきた私だが、丸いままの柿がカレーに入っているのには驚いた。どうぞ柿についての先入観を捨てて、「無理だ」とかいわず想像してみてください。カレーに丸いままの柿。
 柿カレーは柿の完全変態を証明している……かもしれない。たいへんな神秘である。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:地味な人ほど奇抜な衣装を身につけて俗な世間に擬態する……のかも。――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)



連載エッセイ●3
我がまま増量中
 自慢じゃないが今だかつて携帯電話を持ったことも無ければ使ったことも無い。だから大威張りで言うのだが便利なものを手に入れて人類は更に今一つ我がままになったなあと思う。
 ディズニーランドでアトラクションに並んでみると良くわかる。携帯電話を持った代表が列に並んでその代表のもとへ仲間がどんどん携帯利用で割り込んでくる。並んでいる間にちょっと列を離れるのとはわけが違う。「いまどこぉ? こっちはもうすぐだからぁいらっしゃいよ」と、当たり前のように呼び合って挨拶もなしに割り込んで平気な顔である。
 長時間列に並ぶあのばかばかしく無駄な時間を共有する。ディズニーランドからそれをとったらいったい何が残るのだ? それぞれ勝手に行動し、たまに携帯で存在を確認しあう、共に遊びに来てそれなのなら普段もさぞかしお粗末な付き合いなのだろうなと想像できる。
 幼い子供に携帯を持たせて安心と思う親の気も知れない。外に出て困ったことが起きたとき携帯で親に指示されなければ安全な選択ができないような幼子からは未だ目を離すべきではない。分別つくまで育ててから一人歩きはさせれば良い。思慮も分別も直感も安全も買い与えて得られるものではないだろう? はるか昔、我がままとは未熟な子供の専売特許であったものを、最近では分別盛りの大人や老人も水の低きに流れるがごとくその我がまま度を増しているように思えてならない。
 そんな我がままなお客さん達を相手に困りきった末なのだろう。「辛さ、旨さはお客様次第、スープは素のまま、お召し上がりの際に各々お客様の好きな辛さにしてね」というレトルトカレーがある。
 その名もマジックスパイスというカレーの箱の辛さ表示は中辛〜激辛、工夫を凝らした具材と野菜たっぷりのスープ・スパイス・ペーストと、袋3つを食卓の器にて混ぜ合わせ好きな辛さにして食べろ。ということらしい、味や辛さにうるさいお客さんには好評なのか知らないが、実際やってみるとこれは不親切の極みである。レトルトカレーを食べながら、辛い・甘い・おいしい・まずい、お客さんには勝手な事を言いながら食べる自由ってものがあるのに、一口食べてはスパイスを入れ二口食べてはペースト入れて、結局わけがわからないまま食べ終わる。
 スパイスの適量を決めて味付けしてから出すのが料理人の仕事だろう? なんでそこを丸投げするんだ? と腹立てながらも新製品が出る度購入し、毎度憤りつつ食べている。甘い私だ、情けない。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:思わず目を見張る程我がままな張り紙、善意が動機らしいだけに迫力がある――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)



連載エッセイ●2
自慢の水族館
 四角い枠の中でなにかちらちらと動いているのを眺めるのが大好きである。家に居て、テレビを見たり、パソコンをいじったり、水槽の魚を眺めたり、窓から外をみていたり。家を出て乗ったバスの四角い窓から外を眺め、降りた先の映画館で映画を観て、出てきて寄ったペットショップで水槽の魚やハムスターや昆虫を見て、帰ってテレビを見て、パソコンをいじって、魚を眺め、本を読んで寝る。
 私の一日を振り返ると、四角い枠の中で動いている物を見ているばかりの1日で、なんでかなあ? と思うのだ。
 水槽に泳ぐ魚を眺めているのは子供の頃から大好きで、江ノ島や油壺にはよく家族に連れて行ってもらった。油壺のマリンパークは開館当時から東洋一の大回遊水槽が評判で、円筒形の建物の中心に立ち自分の周りを魚達がぐるぐる泳ぐ様を飽きずに眺めに行ったものだ。その大回遊水槽に、ある日大きなマンボウがいて、マリンガールがマンボウの口に優しく餌を突っ込むがマンボウは即座にそれを吐き出す、マリンガールはまた餌を口に突っ込む、を繰り返していた。その様子は子供心にマンボウの意地と、なんとか餌付けしてマンボウを飼いたいというマリンガールの必死な気持ちが伝わって心に残る光景だった。後に鴨川シーワールドのマンボウ長期飼育世界記録が達成され、日本のマンボウ飼育記録の歴史が展示された時、そこにあの日私が見たマリンパークのマンボウの飼育記録も記載されており、あのマンボウは1週間ほどで亡くなったと知った。貴重な光景を目撃したのだと改めて感動した。
 マリンパークには忘れられない思い出がもう一つある、中学生の私に母の友人から「遊びに来ている孫を水族館に連れて行ってくださいな」と子守の依頼、東京から来た男の子のマリンパーク行きにお供して海の見えるレストランで食事をした。私がシーフードカレーを注文した時、唐突に「水族館でシーフードカレーかよ」と笑われた。その子と他にどんな話をしたか、どんな顔だったかも思い出せないのに、彼の鋭い一言は忘れられない言葉となって今も心に残っている。その展望レストランは、後にナマズがお好きなヒゲの殿下が紀子様とデートなさった際、シーフードカレーをお召し上がりになった事で一躍有名になったが、シーフードカレーをそこで食べたのは私達が先であることを特別に記しておく。
 現在、展望レストランは無料展望室になり、あのシーフードカレーはもう食べられない。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:マリンパークのサカサナマズ小さく地味な魚だがこの展示は老舗の技か迫力満点である――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)


連載エッセイ●1
不思議の国の桜
 まったくいったいどういう理由でこの国の人達は桜の満開がこんなに好きなのか、毎年春が来るたびに不思議でならない。
「桜につぼみがつきました」にはじまって「ふくらみました」「開きそうです」「咲きました」次々と北上して行く桜開花の情報が、連日テレビ、ラジオや新聞のニュースとなり、そんなことに紙面を割いて報道しても苦情を言ってくる人も無く、皆喜んで聞いている。
 そんな国がほかにあるか? と思うのだ、絵画、意匠、お菓子や歌謡曲、詩、小説、俳句に短歌、桜にかかわる諸々をあげ連ねたらきりがない。
 私の好きな岡本かの子(岡本太郎のおかあさん)の短歌にも桜の連作がある。
「桜ばないのちいっぱい咲くからに生命(いのち)をかけてわがながめたり」
 おおげさである。春が来たから勝手に咲いている桜と、何をするでもなくただ眺めるそれだけなのに命がけになっちゃう様子に、こちらも思わず同調し、わくわくと平静ではいられなくなる。満開の桜の前で魂を奪われそうで怖くなった事、誰にでもあるのではないだろうか。だから、むやみやたらとお酒を飲んで桜に魂を奪われるより先に正気を失ってしまおうとそれぞれ必死の自己防衛心から、桜の元での酒宴は催されるに違いない。そうと思えば毎年繰り広げられる酔っ払いたちの狂態も多少かわいく思えてくる。
 桜にどんな魔力があるのか、日本人が摩訶な魔術に掛かっているのか毎年春限定の不思議である。
 そして私にはもう一つ年間を通じて不思議でならないことがある、日本人、どうしてこんなにカレーが大好きなのだろう? デパートのカレー売り場に200種類ものレトルトカレーが並んでいる、そんな国がほかにあるか? と思うのだ。売り場に立って見渡すと面白いカレーがたくさんある。洋梨カレー、びわカレー、いちじくカレー、さざえカレー、なんでこんなに何でもかんでもカレーに入れてしまうのだ? 八丁味噌味、しょうゆ味、ソース味、とんこつベースのビーフカレーがあるかと思えば、欧風、タイ風、メキシコ風、インド風まであるには驚く。〜風と言うからには、日本のものを外国風にアレンジしましたと言う意味以外には解釈できないのだが、そういう意味なのだろうなあ。不思議は尽きない。
 不思議ついでに「桜カレー」を探してみたが、明日葉カレーや昆布カレーはあるらしいが、桜カレーは見つからなかった。一番好きな「桜」と「カレー」。どうして「桜カレー」は無いのだろうか? 不思議でならない。

左槙子(ひだり・まきこ):どこにでもいる普通の主婦。数人の子供と一人の夫。そのほか数え切れない動物達と暮らしている……らしい。
写真:満開のソメイヨシノ。眺めるには命をかける覚悟がいるのだ――by 大久保謡子(おおくぼ・ようこ)